『理解してもらえない』は心の保険
この病気だと診断がついてから、
比較的周りの人たちに恵まれていると思っていた。
病気の原因となった職場でも、親身になって話を聞いてくれる人がいた。
一緒に泣いてくれる友達もいた。
その当時つき合っていた男性も、すごく優しかった。
不器用な父親は『自分の命を大切に』とメールをくれた。
母親は『あんたの体が一番なんだから』と言ってくれた。
姉は病気のことに直接は触れなくても、ちょくちょく顔を出して様子を見にきてくれた。
周囲の理解を得られなくて苦しむ人が多い病気なのに、私は恵まれている。
感謝しよう。
そう思っていた。
うつ状態がいくらか和らいできたように見えたころ、
発症してから3~4年経っていた。
和らいだようには見えても、相変わらず仕事はできず、障害者年金で暮らしていた。
お正月、父親とちょっとしたことが原因でケンカになった。
『お前、何様のつもりだ!』
と、言われた。
『働いてもいないくせに、何様のつもりだ!』
そっか、そんなふうに思ってたんだ。
知らなかった。
初めは腹が立った。
その次は悲しくなった。
そして今は父親を信じられない。
それから数年後。
このことについて、つい最近、母親と姉と3人で話す機会があった。
姉はそのことを知らない。初めて打ち明けた。
一緒になって父親がおかしいと言ってくれるものだと思っていた。
『パパの気持ちわかるよ。
だってあんた、病気に甘えてるんじゃない?』
うわ、そっか。
そうだったんだ。
そんなふうに思ってたんだ。
そっか。
かなり端折って書いてるけど、こんなかんじ。
それから
『病気のしんどさを理解してもらうということ』
について、考え込んでしまうようになった。
そしてたどり着いた結論が、
『理解してもらうことはできない』
『理解しようとしてくれる人を大切にしよう』
『伝える努力は諦めたくない』
今のところの結論。
『理解してもらうことはできない』と思っておくのは、
心の保険だと思う。
頭から『この人はわかってくれてる』って思ってしまって、それが違ったり、
理解しようとしてくれてるけど、なんかやっぱり理解してもらえてないなぁ、なんて思ってしまうことって、
やっぱりある。
普段は無意識でいてもいいから、
何かショックを受けることがあったとき、
『理解してもらうことができない』を引っ張り出して、
そのショックを和らげる。
そんなふうにしてみようかな、と思う。